週刊新潮に20数年前の棚田の写真と、現在の同じ場所の棚田の写真が載っていた。
等高線のように尾根を越え谷を周り、複雑な曲線を描いていた棚田が、今は物差しで引いたような直線の重なる階段のような棚田へと変わっていた。
機械化するためには、仕方のなかったことだろう。
今の棚田の方が、きっとはるかに効率がいいだろう。
しかし、かつての棚田こそ美しいと思うのはなぜだろうか。
それは、単になくなってしまったものを惜しむだけの気持ちなのだろうか。
今サヘル地域では、棚田のような変化が、生活のあらゆるところに敷衍しつつある。
電気、水道、そして電話、車などをインフラの基盤とした社会変容が進んでいる。
そして物質的な変化だけでなく、社会システムも大きく変わろうとしている。
地方分権化による行政制度の改変は、地方自治体の組織化を進めており、遊牧民さえも「市」に属することになる。それは単に書類上の話には終わらない。緊急時の食糧配給、子供たちの教育、税金納付の流れなど、実際の生活上そして意識の上で、彼らは次第に都市というシステムにつながれて行く。
さらにマリ国内だけの変化のみならず、欧米のグローバリゼーションも、モノとシステムの両面からサヘル地域に大きく押し寄せている。
サヘル地域のこの変化の流れは、制度を強化し、欧米的な社会システムの効率化を進めている。
しかしそのシステムは、そこに住む人々に本当に幸せをもたらすのだろうか。
定住化や生業の変化などによって、アイデンティティを見失い、首長、家長がその誇りと力を失っていく。家族のありかたが変わりつつある。
たしかに、それまで虐げられていた社会階層やジェンダーが力を持つ機会が与えられた。
これは小さくない素晴らしい変化だと思う。
しかし、人々の暮らしはよくなりつつあるのだろうか。
本当に幸せに向かっているのだろうか。
砂漠にはまったく合わない喩えだが、今のサヘルの変化は、転がり落ちる雪だるまのようだ。
雪だるまはいつまでも転がり続けるわけではない。永遠に大きくなるわけではない。
砂漠は緑にならなず、夢のオアシスは実現しないまま、生活の中の物質的比重はみるみる大きくなっている。それは、サヘルという厳しい自然の中では決して賄いきれないものなのに。
転がる雪だるまの下に、もうそれほど雪はない。
雪がなくなる時、どうするのだろうか。
雪をほかから持ってくるだけの時間とゆとりがあるだろうか。
雪がなくなった斜面を転がって行くのだろうか。
そしてまた、日本の棚田について考えてた。
それはサヘルと同じ道を進んでいるのだろうか
効率化は、その地域に幸せをもたらしたのだろうか。
それは、これからも続く幸せなのだろうか。
棚田の写真は、私の子供たちにつなげたい日本とサヘルの明日について、私に疑問を投げかけ、私の意識をふたつの土地の間で何度も往復させた。
初めまして。興味深く読ませて頂きました。私は来春からモロッコのフェズに世界遺算にも登録されている街並の保存の為に行くのですが、、観光開発に伴う住民の生活の変化にこのエッセイに書かれている事と同じような疑問を抱いています。もう少しお知恵を拝借したいのですが、、文字化けして書込みが難しいので、もしよろしければメールさせていただきます。
投稿情報: みうら | 2003年7 月 8日 (火) 16:22
みうらさん、書き込みありがとうございます。
文字化けはブラウザの文字コードのせいではないでしょうか。
可能なら文字コードをUTF-8にして書き込んでみてください。
あるいはメールでももちろんかまいません。
投稿情報: jujube | 2003年7 月 8日 (火) 18:01
こんばんは フランクフルトに住んでる徒然人です。
「人々の暮らしはよくなりつつあるのだろうか。」
「本当に幸せに向かっているのだろうか。」
という言葉に
ギクっと 目がとまっておもわず筆を執りました。
昔 太宰治の小説で「トカトントン」と言うのがあったかなって
記憶がありますが、主人公はどこに行っても頭の中で
「トカトントン」と言う音がするそうです。
これと同じ現象が前回5年のドイツ生活を終えて日本に帰った
数年間 日本の日々の生活でこの「トカトントン」と言うような
音が小生の頭の中で鳴り響きました。
この場合「トカトントン」と言う音ではなく
「本当に幸せに向かっているのだろうか」と言う
つぶやきに似た素朴な疑問詞でしたが。
たしかにイタリアとドイツとフランスのGDPを足したくらい大規模な世界第二の経済大国かもしれないけれども
「だから何だ?」「それがどうした?」と言う素朴な疑問が
たびたび頭の中に「トカトントン」と言うような音として
小生の頭の中で鳴り響きました。
なぜって?答えは簡単です。
街を往来してる人々の顔を眺めてても
あまり心底楽しそうではないし
仕事仲間と一緒に酒を酌み交わしてても決して
ユトリのある心豊かな生活をじっくり楽しんでいる空気が
まったく感じられなかったからです。
それから日本で9年間生活して
また仕事で2度目のドイツ生活を開始して2年が経とうとしてますが
やはりあらためて遠くから日本を眺めて
あの国は何だったのだろうって
感じます。
素朴なモノローグでした。
徒然人@ドイツ
投稿情報: 徒然人@ドイツ | 2003年7 月29日 (火) 04:23
徒然人さん、こんにちは
日本に来て、家族が「ゆとり」と「幸せ」を感じられる暮らしがしたいとずっと思っています。
そう思うのは、実はなかなかそうできないから何ですが・・・
日本の良いところをたくさん妻や娘に知ってもらい、特に娘にはそれを人生の糧にして欲しいものです。
でも実際には、私自身が「どうしてこんな」というズレを日々感じています。
けれど、だからすぐに逃げ出すのでなく(娘がひとり立ちしたら日本にいないでしょうが)、今の日本を批判するだけでなく、自分の暮らしの中でできることをして、自分のまわりの日本をすこしだけでも変えたいと思っています。
私のいるところは「世界の片隅」ですが、それは私と私の家族にとっては「世界の真ん中」です。
傍観者から参加者になりたいと思っています。
でもそうすると、ゆとりや幸せが犠牲になってしまいそうなのは何故でしょう?
と矛盾をはらんだ毎日を送っているのでした。
投稿情報: jujube | 2003年7 月29日 (火) 05:25
jujubeさん、○○国カップルMLから来ました新参者のKANです。
偶然にも同じ論調の書き込みがあったんですね。
多分何処の国へ行っても同じ思い(矛盾を感じる)をするのでしょうが最近の日本はやはりおかしい!
そして人々はその矛盾を感じていながらただ無為な日々を過ごす。
暮らしに於いて過度の干渉は困りものですが関わり合いの希薄さはこれもまた社会悪です。
昨今起きる異常なまでの少年犯罪もこの希薄さが作用しているのではないかと思っています。
お互いが責任を持たないような社会構造を作り、効率ばかり追い求める。
その結果無機質な物ばかり生じさせて(労働も)素直な感性までも壊してしまう。
不規則な棚田が整った棚田より人の美的感覚に訴えてくるのは一様でない物に安心感と安らぎを覚えるからではないでしょうか。
それはとりもなおさず一人一人違う個性を無意識の内に認めているからかも知れません。
物事を刹那的な効率という物差しで測れば無味乾燥な物以外出てこないと思えるのですが。
吉田兼好氏が現代に蘇れば徒然草part2は書けるでしょうか?
筆を折るかも知れません。
物質文明や理科学文明の進歩は真の豊かさと喜びを醸成出来るのでしょうか。
とりとめのないことを書きました。m(__)m
投稿情報: KAN | 2003年7 月30日 (水) 20:30