私のサヘル・サハラとの付き合いは、冒険心という原点で書いたようにラクダでサハラ砂漠を横断したいという冒険心から始まりました。
でも、突然サハラに出かけてラクダを買ってサハラに乗り出すのは、初めてボートに乗ったその日に太平洋横断をしたり、登山用具を買ったばかりでアイガー北壁に挑むような無謀な行為です。
決心してから、アラビア語を学び、体力をつけ、現地の生活の知識を書物から学び、航海の技術を習得し、現地を2度訪れました。
故植村直巳さんにもお会いしました。故上温湯隆さんを西アフリカで世話した時事通信の長沼節夫さんにもお会いしました。私の前にサヘルでラクダの旅に挑戦した人たち、遊牧民と暮らした人たちからも話を伺いました。
そんな準備に大学の4年間を費やしました(おい)。
それからサヘルに入り、1年間遊牧民に弟子入りし、テントに住み込み、同じものを食べ、同じ服を着て、ラクダの扱い方、どうやって逃げたラクダを探し捕まえるか、ラクダが病気になったらどうするか、トゥアレグの言葉、砂漠の生活などを学びました。
そしてラクダでサハラの海に船出しました。
冒険ではありましたが、成功はともかく、生き抜けるという自信を得てからの挑戦でした。
それが自分の中で、無謀と冒険の区別でした。
結局、旱魃の中、多くの遊牧民に支えられて生きている自分を見つけ、目標地点にたどり着くという地図の上に点と点を結んでいくという行為に意義を見いだせなくなり、サハラ横断という旅は途中で諦めました。
しかしあの旅を通じて、多くのことを学びました。
あの旅の準備と、旅をした自分がいるからこそ、今の自分があります。
あの旅が今の自分を支えているのだと思います。
最近、サハラを舞台にした冒険や遊牧民のテントに住み込む日本人や欧米人の話を聞かなくなりました(パリーダカールラリーは冒険じゃなくて公害だと思っています)。
アルジェリアの治安悪化から、サハラ越えができにくくなったこと、サヘル諸国の治安も安定していないことなどもその大きな理由でしょう。
社会的な要因から、サハラが冒険や旅の舞台でなくなってしまったとしたら悲しいことです。
今ヨーロッパで大きく報道されている15人のドイツ人、8人のオーストリア人、4人のスイス人、ひとりのオランダ人の行方不明・人質事件は、そんな状況をさらに悪化させているでしょう。
サハラ・サヘルでの冒険や暮らしを通して、サヘルやそこに住む人たちを大好きになる同志に出てもらいたいと思っているのですが。
そうだったんですか。わたしも冒険がしたくついに日本でサラリーマンの生活をしています。つまらないですけど。
ところで、故植村直巳さん、といいますと、お亡くなりになったということですか。失踪したというか、世間から離れた、蒸発したのだと思っていましたが。
投稿情報: Ken Loo | 2003年8 月13日 (水) 22:45
植村さんは、1984年2月12日、43歳の誕生日に冬季単独初登頂を果たされましたが、翌朝の13日セスナ機との交信を最後に帰らぬ人となりました。
捜索隊は雪洞に残された遺品や頂上に立てられたピッケルと国旗を持ちかえりましたが、彼の行方はついにつかめませんでした。
投稿情報: jujube | 2003年8 月14日 (木) 03:52
植村さんの事は音楽の授業で知りました。
1984年に亡くなったと言う事が解ったんですが
他にも1970年に亡くなられた。など
さまざま・・・。本当はいつなのですか??
でも、植村さんは勇敢で凄いと思いました。
投稿情報: 貝ノ目 | 2003年9 月30日 (火) 19:04
貝の目さん、
植村さんが亡くなられたのは先に書いた通り、1984年です。
私自身1981年に植村さんにお会いしていますから1970年には亡くなられていません。
1970年は、彼が北米大陸最高峰マッキンリー(6,194m)に単独登頂し(8月26日)、世界初の5大陸最高峰登頂者となられた年です。
1984年は、同じマッキンリー登頂ですが、世界初の冬期単独登頂でした。
投稿情報: jujube | 2003年9 月30日 (火) 22:59
古い話ですが、植村さんが亡くなった直後、マッキンリーで、彼の使用していた雪洞を、見たことがありました。84年ですね。
彼を乗せたパイロットは、ダグ・ギーティングでしたよね。
植村さんは、4900〜5200mの間で、個人的に思うのですが、ピータース氷河に落ちたのでは…と、思いました。あの付近は、何度かのぼりましたが、マッキンリーのウエストバットレス・ルートの中で、一番急峻なところです。ロープを使わなかったとしたら、下りるときに、すごく厄介な場所が2〜3カ所あります。
投稿情報: himalaya | 2003年12 月 9日 (火) 14:10
himalaya さん、
植村さんとは法政大学に講演いらしたときお話しさせていただき、海のないところでの六分儀の使い方についてヒントをいただきました。
そうそう、登山家の友人から
「山は征服する目標が見ている。砂漠にはそれが見えない。山の方がおもしろいよ」
と言われたことがあります。
でも、登山もきっとそうでしょうが、砂漠を越える「過程」そのものに惹かれるんですよね。
砂漠には何もないわけじゃなく、大変なだけでなく、日常感じることができない自然の大きさ、怖さ、美しさ、そこでの遊牧民との連帯感があります。
けれど登頂時の達成感みたいなものはないかなあ。
でも「戻る」という作業をしなくていいのは楽かも。
投稿情報: jujube | 2003年12 月 9日 (火) 23:01
「山を征服」することと「砂漠を越える」ことと、どちらが面白いかは比較できませんよね。
私は砂漠を越えた事はありませんが、山は好きでした(昔の話ですが)。特に単独行の冬山が好きでした。人の形跡がない冬山を一人で切り開く喜びは、困難であればあるほど魅了されます。
たいした山ではないせいなのか、登頂の喜びは私にはあまりありませんでした。もちろん、目標がそこに立つことですから、途中で引き返したくはありませんし、達成感もあります。でも、頂上に経った時の一番の喜びは、この、誰一人いない(見えないと言うだけですが)見渡す限りの銀世界が、すべて私一人のものだ、ということでした。ですから、ヘリコプターが頭上を飛んでいたり、人の声がするとがっかりしたものです。
砂漠をラクダと共に一人越えている時、もし人に出会ったら、きっと涙が出るほど嬉しいのではないでしょうか。
私がラクダと砂漠を旅することはありえません。遊牧民との連帯感も沸かないかもしれません。
でも、私がアフリカに惹かれるのは、この「人」にあるのです。
ですから、「砂漠を越える」事と「山に登る」事とは、おそらく私にとって、全く違う喜びを持っているように思えます。
ところで、登頂後の下山ですが、これは大変楽しい作業です。下山をするために登るとも言えます。
投稿情報: Dicko | 2004年1 月 2日 (金) 19:09
Dicko さん、こめんとありがとうございました。
Dicko さん:砂漠をラクダと共に一人越えている時、もし人に出会ったら、きっと涙が出るほど嬉しいのではないでしょうか。
本当にその通りでした。
そして自分の興味が、移動することより、そこにすむ人たちに移っちゃったのでラクダの旅を止めてしまいました。
Dicko さん:私がアフリカに惹かれるのは、この「人」にあるのです。
わたしもそうです。
写真を撮っても、風景より人ばかりになってしまいます。
Dicko さん:登頂後の下山ですが、これは大変楽しい作業です。下山をするために登るとも言えます。
へえ〜、こういう気持ちは考えていませんでした。
なんだか、すごいことを教えてもらったようで嬉しいです。
投稿情報: jujube | 2004年1 月10日 (土) 07:37