修験道の聖地で「女人禁制」の奈良県の大峰山に無理やり入山した性同一性障害を持つ3人の行動にはあきれ果てた。
女人禁制が1300年間続く修験道の聖地、奈良県天川村の大峰山への登山を目指すと公表していた性同一性障害を持つ人ら35人のグループが3日、現地を訪れた。
(中略)
地元・洞川地区の桝谷源逸区長(59)は「先人から受け継いだ伝統や生活がある。地元の心情を理解してほしい」と登山中止を求めた。グループ側は今後も話し合いを続けてほしいと要望した。しかし、午後0時半ごろ、3人が結界門をくぐって山に入った。その1人は「問題提起をしたかった」と説明した。
引用元:asahi.com: 女人禁制の大峰山で女性ら3人が登山強行
いろいろ書こうと思ったが、ちょっと検索してみただけでも、この事件に対する批判はもう充分すぎるほど噴出している。
関係サイトはすでに「炎上(blogのコメント欄やトラックバックに[しばしば批判的・感情的な]多数の意見が寄せられて、blogの運営者が対応できる限界を超えたようにみえること[はてなダイアリーのキーワードより])」中。
というわけで、主な批判はもう出尽くしているようなので、補足的な感想を。
1.3人の行動が全体批判に
3人の行動は、35人の総意とか、その代表として行われたものではない。
3人だけの判断によるの思慮に欠けた暴挙だ。
3人の行動から、彼(女)らを含むグループ全体を同じように批判する気はない。
しかし3人は、残りの32人、さらには性同一性障害を持つ人々一般に対する自分たちの行動が及ぼすであろう影響の大きさが、どうしてわからなかったのだろう。
また、グループが3人のそういう行動が予測できなかったとも思えない。
誰かが強行手段にでる可能性を知りつつ、黙認してしまったのではないだろうか。
自分たちがセンシティブな立場にあり、その辛さを身にしみて知っているなら、なぜ他者に対してもセンシティブな配慮ができなかったのか。
ほかのブログでも批判されているように、自分たちこそ正しいという「傲り」のせいだったのだろうか。
2.質問状
予め用意された質問状(ここにあります)には驚いた。
特に以下の項目
- 14 (前半省略)男性で「過去に犯罪を犯した人、現在犯している人、執行猶予中の人、ナチス礼賛者の人、しょうがい者、ハンセン病患者(回復者)、外国人、異教徒の方」の中で、入山してはいけない人はいますか?
- 17 (前半省略)では、「大峰山」の中で性交渉することはどうなのですか? その理由も教えてください。 また修行に行く直前に、あるいは修行を終えて下山してきた直後に、「大峰山」のふもとの宿の中で性交渉することは戒律上どうなっていますか。
- 18 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
- 19 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
- 21 もし女性が入山したら、どのようなことがその人に起こりますか。また周りの人にはどのようなことが起こりますか。また山や環境などにもどのようなことが起こりますか。
- 25 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」「聖なるもの」は、すべての人を平等に愛するとおもうのですが、入山したいという女性を苦しめるのはなぜですか?
- 27 「大峰山」の伝統は誰がいつごろ作ったのですか? 証拠・文書はありますか。
この質問状を読むと、私には、時間をかけて少しずつ、理解を深めていきたい、話し合おうという意図が感じられなかった。
3.比喩としてのイスラム教
彼らの行動に対する批判で、
「それはイスラム教徒に豚肉を食べさせるような行為だ」
という比喩が多く出ている。
やはりの女人禁制の修道院のあるキリスト教とか、イスラム教より戒律の厳しいユダヤ教ではなく、まずイスラム教が、自分と対立する立場、違うもの、の例となっているのは興味深かった。
4.参加型開発
たった一回の話し合い(それがまともな話し合いにならなかったとしても)しかしていないのに、すぐに強行手段にでた性急さにあきれ果てた。
性同一性障害に対する認識だってそうだろう。
無理やり制度を作ったって解決にはならない。
人、社会の意識を変えるには、その人、その社会そのものが内側から変わるように、時間をかけて対話から進めていかなければならない。
3人は、それを誰よりも身をもって知っている人々ではなかったのか。
3人の行動をアメリカのアフガニスタンやイラクでの戦争に喩えているブログもあるが、西アフリカで問題になっているFGM(Female Genital Mutilation、女性性器切除)への取り組み方に通じる問題であると思った。
サヘルや砂漠の話題を直接扱っていない投稿が続きましたね。
しかし私の中では、例えば今回4番目に述べた部分のように、何らかの形で問題意識はサヘルや砂漠と繋がっています。
日本で暮らしていると、そういう間接的な話題が増えていくのかも知れません。
それはサヘルや砂漠から離れている限り仕方ないかも知れないけれど、自分自身で寂しくも思います。
>日本で暮らしていると、そういう間接的な話題が増えていくのかも知れません。
よくわかります。「ああ、同じパターンじゃないか」と。。。
それにしてもメチャクチャな話ですね、これは。またjujubeさんと同じように、たとえばなぜカソリック教会の女性神父については? とか、日本の仏教の僧侶の妻帯肉食はそれほどいいのか?とか、私もいろいろ思ってしまいました。私はつねづねマレーシアやインドネシアにさほど興味もなく、ほとんど知らない日本人が特別ではないのに、なぜ突然イスラム教徒を持ち出すのか?とも思っておりますし。――西洋というかアメリカかぶれ、あるいはキリスト教かぶれに見えてしまいます。。。
投稿情報: リー姐 | 2005年11 月 6日 (日) 14:41
間接的な話題が増え、それが悲しいのは、おっしゃるような意味も確かにあります。
でも、別の意味もあるんです。
それは、直接的な話題から遠ざかりつつある自分の立ち位置へ危機感です。
自分の感覚が、大切にしたいと思っているサヘルや砂漠から遠くなりつつあることへの不安です。
それは、日本の暮らしにだんだん慣れてきたということなのでしょうが、日常生活に埋没したくない、埋没してサヘルや砂漠を忘れてしまいたくない、という気持ちなんです。
でも、妻がいて、連絡を取り合っているサヘルの友人がいて、サヘルつながりの日本人の友人がいる限り、私がサヘルや砂漠から完全に切れてしまうことはないでしょう。
それにはとても感謝しています。
投稿情報: jujube | 2005年11 月 7日 (月) 09:12