XMLによる外部へのデータ提供は、日本人の「引きこもり性」に合っていないのではないかと思うことがあります。自分のホームページのデータを誰でも勝手に使えるように公開するという方法と、日本人の持つ「ホームページ」という私物感とが相容れないのではないかと思うのです。海外では、ホームページを作成し公開するということは、万人に公開することだという認識があると思うのですが、日本では「我が家へようこそ」というのがホームページに対する認識ではないでしょうか。
それは家の構造でも似ていると思います。日本の家屋の場合、「まず靴を脱いでください。ここからは我が家です」という感じですよね。でも海外では、個人の領域というのは部屋であって玄関ではない。靴で家の中に上がっていって、本当に靴を脱ぐのは部屋の中です。海外のウェブページというのは家の玄関と同じように、必ずしも個人の所有物ではないという意識があるのではないでしょうか。その辺の心理モデルではないですかね。
例えばはてなアンテナでも、日記サイトを運営している人が「勝手に自分の日記をアンテナにのせるな」というケースがあります。自分が書いたものが勝手に世界中に広がっていくということが、日本人の心理モデルに合わないという根源的な問題がある。「自分の文章が勝手に他のところに掲載されている」という感覚ですね。そういった著作権の問題とXMLの問題は関連があると思います。
引用元:CNET Japan - 「日本人にはBlogより日記」、はてなの人気に迫る
文化の差異によるBlog と日記サイトの受け止められ方のすばらしい考察から外れたコメントになりますが、家の構造の話について、なるほどと思いました。
国際結婚をされている方から、同じようなお話を聞きました。
妻の友人・知人を自宅に招いた時、プライベートな話をいろいろしたら、後で妻に「何であの人にそんなことまで話したのか」と言われた。
そうおっしゃっていました。
欧米の感覚では、自宅でも「居間」はまさに「Salon:サロン」=社交の場、パブリックな場所、なのでしょうか。
考えてみるとサヘルでも同じような気がします。
遊牧民のテントになると、さらに居間と寝室の区別もありません(できません)。
こうなると自宅のどこでも、人が複数いるところはすべてパブリックスペースと思うべきだという気がします。
本当に親しい友人だけの会話の場所は、場所で自動的に決まるのではなく、意図的な状況設定で決定しなければいけないのかも知れません。
もうひとつ。
サヘル北部は家が集まって集落あるいは相当大きな町になっていても、家の外は村の外と同じ意識の気がします。
つまり家の中はパブリック・スペースでも、町の中はパブリック・スペースだという意識がないと思われます。
だから、家の外が人の通る通りでも、ゴミを捨てたり、水を流したりします。
トンブクトゥ地方だと2階にトイレがあって、小便が樋で道路に流れ落としている家もあります。
これは、家の外は brousse (フランス語で荒野・僻地)という感覚だからだと思います。
トゥアレグはトイレに行くことを「外に行く」と言います。
まあ、テント生活の場合、ちょっと歩けばまさにその通りなんですが。
テントの外は、集落でなく荒野という感覚なのでしょう。
余談ですが、トゥアレグの言葉の「遊牧民」を直訳すると「荒野の人」になります。
ところで、パリの道にはたくさん犬の糞が落ちていますが、あれは町の中や道路をパブリック・スペースと考えていないからではなくて、掃除するのは清掃係、という個人主義的な意識のせいでしょうね。
ただし、サヘルの一部で、集落についてパブリック・スペースという意識がないことは、そのまま人間関係が希薄だという意味ではありません。
人と人との関係は濃いです。
遊牧民のテントとテントは空間的な距離は、季節によって(それぞれのテント=家族が家畜の草場や井戸を求めて)それが遠くなったり近くなったりするわけですが、心理的な距離とは無関係です。
日本でも親類関係はそうですよね(ちがうのかな)。
助け合わなくては生きていけない厳しい自然環境のサヘルでは、見ず知らずの旅人も最低3日間はもてなさなければいけません。
このように、居間がパブリック・スペースという点は、サヘルと欧米が似ていて、日本が違うようですね。
でも、家の外がプライベート・スペースでもパブリック・スペースでもないというところは、なんだか最近の日本の都会の生活もそうなってきている気がしませんか。
(2002.4.15改)
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