放射能の影響で、苦しみ、亡くなる子どもがいまも絶えない現実を知った。「過去の話じゃなかった」。
私にとってチェルノブイリの原発事故は、コーンビーフと粉ミルクの味にまつわる思い出です。
ラクダに乗ってサハラ砂漠横断に挑戦しようと日本を出たのが1983年3月。
半年間の予備調査と1年間の遊牧民のテントへの住み込みの後、ラクダに乗って旅に出ると、それは1980年台の大旱魃の最中となっていました。
旅の途中、死骸となったラクダやウシを多く見かけました。
数万円のウシが、骨と皮だけになり、食料を得るために数百円でも売られたりしていました。
欧米の緊急援助が始まり、難民キャンプがあちこちにでき始めました。
当時の援助は、地域住民の自立とか持続的開発とか基本的に人権の尊重などはまだまだ議論されておらず、同情心からの無計画な食料や医薬品の配給がほとんどでした。
さて、チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に発生しました。
4月27日には海を越えたスウェーデンで放射能が検出され、これをきっかけに28日ソ連政府は事故発生の公表を余儀なくされた。 (中略) 事故から4ヶ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出した。その報告などに基づくと(中略)周辺住民 には急性の放射線障害は皆無であったとされている。 (中略) チェルノブイリからの放射能は、4月末までにヨーロッパ各地で、さらに5月上旬にかけて北半球のほぼ全域で観測された。 86年ソ連報告ののち、ソ連国内の放射能汚染や被害に関する情報は全くと言ってよいほど出てこなくなった。チェルノブイリ事故に関する情報は機密扱いとされ、汚染地域に居住している人々にも自分たちが住んでいる所の汚染について知らされなかった。引用元:チェルノブイリ原発事故
その実態はソ連国内外ともにほとんど報道されず、チェルノブイリ周辺の地域住民にも知らされることはありませんでした。
しかし1980年代後半、
「サヘルへの援助物資や闇で流れている食料にはソ連製のもの、ソ連原産のものが多く使われている」
「コーンビーフは、汚染したウシの肉だ」
「粉ミルクは汚染したウシのミルクだ」
「だからコーンビーフと粉ミルクは使うな」
そんな噂が援助関係者の間で流れました。
本当か嘘だったか、まったくわかりません。
しかし近年サヘル地域でもガンが増えているという医師がいます。
私にとってチェルノブイリの事件は、直接的なつながりはありません。
けれども、今ももその後遺症で苦しんでいる人の話は、日本人としてひと事でありません。
そして当時、サヘルで遊牧民とともに食べたり飲んだりしたコーンビーフや粉ミルクの味とともに、あの事件は私には嫌な思い出となっています。
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