第3回アフリカ開発会議のために来日されたマリのトゥーレ大統領とお会いすることができました。
私たち夫婦は、トゥーレ大統領に関しては、実は複雑な思いがありました。
この紛争は、1990年、ニジェール中部で、牢屋に入れられたトゥアレグの若者を、その仲間が牢屋を破って連れ出したのが始まりでした。 軍隊が、逃げた若者を捜索する途中で、牧畜民のキャンプの女性や子供たちを虐殺しました。 それに対して、武器を持った牧畜民たちが反乱活動を起こし、それがマリにも拡がり、5年以上に渡って紛争は続きました。 この間にアルジェリアやモーリタニアに逃げたアラブ・トゥアレグの難民の人数は5万人以上にもなりました。
マリ北部で、政府や黒人系の民族とトゥアレグ・アラブの紛争が広が りはじめた頃、首都を中心にした南部では、軍事独裁を続けていたトラオレ政権に対する民主化要求運動が高まり、1991年にパラシュート部隊のトゥーレ司令官(現大統領)がクーデターで政権を掌握し、暫定国家元首となりました。1992年にコナレ大統領への民政移管を成功させた後も、彼は地域紛争の解決に積極的に取り組みました。
民主化の進めようとする国家の不安要因である紛争に対して、厳しい姿勢で望んだわけです。
それはしかし、紛争地域においては、一部の軍隊とさらにはそこに住む住民をもトラの威を借る行動に走らせました。
当時、反政府軍だけでなく、ただ反政府軍と同じトゥアレグやアラブであるというだけで罪もない人々、女性、老人、子供たちまで殺されました。
マリ人で初めて日本のわが家を訪ねてくださったトンブクトゥ古文書センター(CEDRAB:Centre de Documentation et de Recherche Ahmed Baba de Tombouctou )館長のシディ・アマル氏もトンブクトゥ市内を車で引き回されて殺されました。
妻の村のあたりにいるトゥアレグはすべて反乱軍と見なすと言われ、妻とその家族は、大切なものは砂の中に埋め、砂漠の中を1か月に逃げまどいました。それから義父の知り合いのいるなんとか治安のましな村に入りました。
その村から義父は、日本から妻を探しに来た私のために妻を送り出してくれました。
マリや日本の友人たちの助力で妻と再開し、義父に別れを告げ、私たちはマリを離れ、結婚して、セネガルで暮らし始めました。
その頃、マリ国内では、略奪、焼き打ち、死の危険などから家畜も家財道具も捨てて数万人が難民となり近隣国へ逃げ出していました。
妻の親類や私の友人もその中に大勢いました。
ダカールのわが家に、30人以上の人たちを受け入れていた時期もあります。
あの紛争は、マリ国内にいない私たちにも決して他人事ではありませんでした。
90年代半ばの民族紛争の最中、義父はいつ殺されるかもしれない状況を覚悟の上で、マリの北部に残りました。 暴力に対する暴力という手段でなく、また政治的な舞台にも決して立たず、あくまでふつうの生活を続けることで、その狂気に抵抗しました。 民族の対立の中よりも、同じ地域に暮らしてきた人々の絆を信じた義父でした。しかしそれゆえ、結果として自分の民族の信頼を失うよう状況になりました。
これが晩年の義父にはやはり堪えたようでした。
内戦後、目に見えて体力も気力も衰えました。
内戦の思い出は、父の早過ぎる死の悲しみにもつながっています。
このような時代に、行き過ぎた行動も少なくなかった軍隊や民間の後ろで、政府の軍事行動と治安維持の指揮官としてトゥアレグ・アラブに対して厳しい姿勢で望んでいたトゥーレ将軍には、批難の気持ちも抱かずにはいられませんでした。
しかしかつてそんな思いがあったからこそ、今回の来日された機会に、トゥーレ大統領とお会いさせていただくことにしました。
多忙な会議の合間のほんのわずかな時間ですが、お話をさせていただくことができました。
大統領が私にタマシェク語で挨拶をされたのは、私にとっては非常に意味深いものでした。
妻も在日マリ人と大統領との懇談会のあと、やはり大統領と個別に話をさせていただきました。
あの紛争のことはこれからも決して忘れません。
亡くなった人々への追悼のため。
そして、これからの平和な暮らしを築き、子供たちに託していくために。
しかし大統領とお話ができて、妻も私も、あの紛争にまつわるトラウマから一歩前に進めた気がします。
日本のNGOとの懇談会で、大統領のスピーチはこう始まりました
「私はすべてのマリ人の幸せを目標にしています。」
心からそれを願っています。
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