コートジボワールの問題は、いよいよ次の段階へ移りそうだ。
しかし今後の展開を考える上で、気になっている言葉がある。
イヴォワリテ(Ivoirete)あるいはイヴォリアン・ネ(Ivorian-ness)である。
これは、コートジボワール国民であること、という概念だ。
日本に生まれて暮らしていると、国とか民族は恒久的なもののように思える。
しかし人類の長い歴史を見れば、国家は興っては滅び、統合され分裂してきたものだ。
民族も文化も同じことだ。
それは決して固定的なものでなく変容するものだ。
「伝統的な」という言葉によって表されるものも、実は時代によって刻々と変化している。
西アフリカの多くの国は1960年に独立している。
つまり1959年に私が生まれた時にほとんど国は独立していなかった。
つまり、当時はコートジボワールもブルキナファソも存在しなかったのだ。
国家成立後100年も経っていれば、国民のほとんどは、生まながらに国籍を有しているだろう。
しかし、独立後40数年しかたっていない国々では、両親だけでなく兄弟姉妹の国籍が違うことも少なくない。、
それは、単に生まれた後に引かれた国境によって、そして自分の意志でなく、独立時に住んでいた(あるいは働いていた)土地によってなかば偶然に決められてしまうことさえあったであろう。
したがって、独立後間もない(独立以前に生まれた人がまったくいなくなるまでそういっていいだろう)時には、国籍を区別すべき状況と、それを越えたつながりを重視すべき状況の区別を間違ってはいけないと思う。
国家そして国籍は、そこの住む人々を守るためにこそ存在すべきものであるはずだ。
国内のすべての人々が、幸せに生きていけるようにすることが、国民によって選ばれ、託された政府のそして大統領の使命であるはずだ。
国内にあっては、首都や大都市にすむ人々も、地域に住む人々も、キリスト教徒もイスラム教徒も伝統的宗教を信仰する人も、どのような民族であれ、言語を話す人々であれ、同じように守られるべきである。
「イヴォワリテ」という言葉がそのような「国益」のために使われるのであれば、国家間の利害の違いによって隣国との摩擦を生むことがあっても、国家の単位で社会が構成されている現代社会にあっては仕方がないだろう。
だが現実には、「イヴォワリテ」は「国益」のための概念としてでなく、国内における政権争いのためのスローガンとして用いられ、南と北という地域の対立、キリスト教とイスラム教という宗教的対立、そして民族の対立を深めるばかりに見える。
対立する状況にある双方が、ひとつの国家の下に同じ方向性を持ってまとまることを願わずにはいられない。
そしていつか一国家を越えて、西アフリカとしてのマルチナショナルな「益」を求め結束する日が来ることを望みたい。
そのためにコートジボワールに今必要なのは、イヴォワリテという対立を深めるスローガンではなく、南も北も国民すべてを包み、近隣国とも溝を深めない政策ではないだろうか。
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