ようやく平和への道を歩み始めたかに見えたコートジボワールですが・・・その道のりはまだまだ遠いようです。
1月24日にマルクスィの円卓会議での調印され、そしてその後2日間の西アフリカ首脳会談議で承認された和平合意後のコートジボワールの混乱は、いわゆる「南北問題」の縮図のように思えます。
アビジャンやヤムスクロでのデモや内務大臣の「和平会議の合意は無効」という発言は、直接的には、和平会議の内容と、それに基づいてディアラ新首相(北部出身)のもと9つの大臣ポスト(特に国防大臣と内務大臣)が「元」反乱軍側から選出されることへの反発でしょう。
これは、それまで維持してきた自分たちへの力の集中を妨げる決定への不満による行動です。
このような状況は、温暖化防止のための京都議定書の否定、生物多様性条約の批准の拒否、環境・開発サミットへのブッシュ大統領の欠席などを行ってきたアメリカ合衆国の行動と重なって見えます。
一国内ながら「Upper:力のある」の南と「Lower」の北という地域格差の構図とそれに対するせめぎ合いは、南北の立場こそ違えグローバルな南北問題と同じではないでしょうか。
自分のこれまでのアフリカのおける開発の経験から、力の差(上の文章でもそうですがあえて「貧富」の差とは言いません)が存在する状況で、LowerをUpperと同じところまで引き上げられない時(ほとんどの場合がそうでしょう)、Upperが自らその立場から降りて、痛みを分かち合い身を削るしか手段はないと思っています。
グローバリゼーションの席巻する現代世界において、コートジボワールのみならず、ほかのアフリカの国のひとつの村、一地域の平和と発展を考える場合でも、あるいは世界の中の日本の立場においても、Upperである側が立ち止まる、さらには身を削る痛みを持っても一歩下がることの必要性(と同時にその困難さ)について、コートジボワールの事件を聞きながら考えます。
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