今日の入学式を前に、ここ何日か娘の持ち物に名前を書いていました。
そして名前を書かなければいけないものの数に驚きました。
おはじきのひとつひとつ、数字カードのひとつひとつにまで名前を書きました。
そんな作業をしながら考えました。
毎年同じ道具を使うのなら、それを使わない学年になった時に、それを学校のものとしてはどうなのでしょう。
そうすれば、毎年新入生が買わなければいけないものはずいぶん減るはずです。
足りないなら、あるいは紛失するようなら、個人でなく学校で余分を買っておいてはどうなのでしょうか。
学校では、家で学びにくい社会生活のルールや他人を思いやる心を学んでほしいと思っています。
そのためにも、公共の小物を使うということで、みんなのものを使い続けるためには、自分が大切にものを使わなければいけないこと、次に使う人のためには、自分がきれいに使い、掃除し足り直すことが学べるのではないでしょうか。
自分の持ち物は自分で管理することは、自分の教科書、消耗品のノート、鉛筆、消しゴムだけでもできることでしょう。
そしてもうひとつ。
勉強に使う道具の立派さと数にも考えてしまいました。
ものがあることは確かに勉強の助けになるでしょう。
しかし、ひとつのことにそれ専用のものがあると応用力がなくなりそうです。
ひとつのものを工夫して使い回すことで、受動的なだけでない想像力も養われると思います。
サヘルの地方の学校では、生徒の数だけ教科書がありません。
先生が黒板に書いたことを書き写し、それを読み返して学んでいます。
自分の持ち物は、科目の数のノートとボールペンと定規だけです。
先生は、古雑誌や木の枝を利用して、工夫して勉強の道具を作っています。
子供たちも、身の回りにあるものを利用して、いろいろな遊びをしています。
砂の碁盤に木の枝と山羊の糞を使ったサヘルの将棋(マイドゥ)、木の枝で作った弦楽器、空き缶の打楽器、針金で作った自動車・・・
日本の子供たちも、身の回りにあるものを、本来とは違ったおもしろい使い方をして遊んでいるのでしょうか。
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