「ミント・ティー」に書きましたが、家族でサーカスに行ってきました。
サーカスが始まると照明が消され、客席は暗くなります。そんな中、私の前の席の男性が携帯電話を開いて画面を眺めています。メールでも読んでいるのでしょうか。
暗い中、その明るさがとても気になるので、肩を叩いて「すみません。まぶしいです」と注意しました。
隣にいた妻は、「肩まで叩いて注意しなくてもいいのに」と前のカップルに気を使っていました。
どっちが日本人かわかりませんね。
以前も映画館で、上映中に前の男性が携帯の画面を見ているのが気になって注意しました。
妻のことばを聞きながら、何で私は携帯の明かりが気になるのかなあと、サーカスを観ながらしばらく自問自答。そこで、はたと思い当たることがありました。
サヘルの遊牧民と電気もないところで暮らしていたときです。
日が沈むと、月明かりや星明かりで夕食を食べ、お茶を飲み、いろいろな話をしながら寝るまでの時間を過ごしました。とても夜目の利く遊牧民と違い、私には懐中電灯が必需品でした。電池も貴重なのでとにかく節電しながら、食事の皿の中を見たり、夜中に起きてトイレに行くときなどに懐中電灯を使いました。
そして、名前を呼ばれた時など声のする方に懐中電灯を向け、友人の顔を照らしたりして、よく注意されました。
「懐中電灯で人の顔を照らすのはよくないことだ」
懐中電灯で照らしている場所はもちろんよよく見えますが、その光の届かないところは、懐中電灯を使っていないときよりもむしろ見えなくなります。懐中電灯で前から顔を照らされると、視界は真っ暗になり、その後しばらくまわりがよく見えません。
そういう危険な状態を招くことが、そのタブーの理由のひとつかなと、電気のないところで暮らしているうちに気がつき、懐中電灯の使い方に気をつけるようになりました。
日本に戻って、懐中電灯を使う機会はまずありませんが、暗やみの中で見る携帯は懐中電灯のようなものだと思いませんか?
暗やみの中で携帯の明るい光を見せられて私がやけにカチンとくるのは、単にマナー云々ではなく、遊牧民の人たちから、暗やみの中で人に明かりを向けてはない、というしきたりを長い間叩き込まれて暮らしてきたからではないか、今日そう思いました。
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